生活


あまり人と話さないように一日を過ごす。
昨日は宅急便の人に「はい」「ありがとう」と言っただけだ。Amazonは無口の練習に向いている気がする。

高校のときに一人でいる時間が長すぎてクラス全員の観察記録を書いたことがある。誰それは誰それが好きで、誰それが嫌い。仲のいいふりをしているのはあの人とあの人で、裏では悪く言いあっている。なんかそんなの。集団がまとまるために必要な仮想敵の役目が自分で、できたらよそでやってほしいのだけど、聞こえるか聞こえないかギリギリのところで悪く言っているのが聞こえる。うん、嫌いなのはわかったから、少し離れてくれないかな。

いちばん目立ってて、いちばん自分のことを嫌っていた人がテレビでちやほやされていた。ありもしなかった昔のことを、さも自分のことのように話していて世渡り上手って本当にいるんだなと思った。来月には新しいことを始めるのだという。どうにかして潰せたら面白いのかもしれないけど、自分を嫌いな人がどうなろうと興味はない。

部屋を閉めきってエアコンをつけると、少し大きめの音で音楽を鳴らす。誰かがいたらできない贅沢だと思う。自分以外の人が家の中にいたことはもう何十年もない。耳にとどまらない言葉は愛だの恋だの歌っていて、誰かへの恨み言はその誰かのところに届くのか考える。テレビでちやほやされていた、自分をいちばん嫌いな人は永遠に気づかないだろう。

なんとなく思いつきで書いた文章は誰にも読まれることなくウェブサービスの隅に残されたままになっている。どこにも転生しないし誰も愛さないのでたぶん当たり前なのだと思う。ハードディスクの容量を何キロバイトか占有して、それ以外の迷惑はかけていないはずだ。そしてまた新しい、誰にも読まれることのない文章が積み上がっていく。

エアコンの室外機のホースから水が出てくるのを見ているのが好きだ。わかりやすい成果物。呼吸をして、日々同じ生活をする自分とは違う。誰にもけなされもせず褒められることもないなにかを積み上げるだけだ。そんなに気を使うのなら無理しないでください。そういうことができればどれだけ楽になれるだろう。無理だけど。

自分がやりたかった、実際にはしていないなにかはたいてい誰かにかけられた呪いのせいだと思う。同じことをその誰かがしれっとやってるのを見て、呪詛返しにあえばいいのにと思わなくもないけど、わりに合わないのですぐに捨ててしまう。今にして思えば、今よりもう少しだけ可愛げがあったときに自分を安売りしておけばよかったのだ。はじめから価値などなかった自分でもよければ。よくわからないおじさんに何時間かだけでも身体を預ければ、そのときだけはだいじにしてもらえるのだ。たぶんだけど。

先生、残念でした。まだAIDSになんかかかってませんよ。

遠くから聞こえる学校の呼鈴は嫌なことだけを思い出させ、人に話すときはありもしなかった思い出を捏造する。どうせ誰も知らないのだから辻褄さえあえばなんでもいいのかもしれない。本当の名前も言ったわけでもないし。

本日もつつがなく一日を終える。業務連絡的には平和な一日だ。誰が言ったかわからない、おそらく自分に向けて発せられたあまり聞こえのよくない言葉は耳に入れる前に元の場所に返すことにした。自分の家にお帰り。君が傷つけるのは君を形にして放した誰かだけだ。